世界に誇る日本料理を支えている「包丁」。そんな包丁の中でも、プロの料理人からも愛され、いま世界中から注目を集めているのが大阪府堺市で作られる「堺打刃物」。その職人として永きに渡り包丁作りに携わるのが、伝統工芸士でもある田原さんです。
「祖父も、親父も包丁づくりの職人で、私で3代目になります。こう話すと、私も幼い頃から職人になることが自然な流れのように感じますが、実は、親父は私を跡継ぎにしようとは思っていなかったみたいなんです。」
幼い頃から工房で家業の手伝いはしていたというものの、決して「家業を継げ」とは言われなかったそうです。
中学、高校時代は卓球部に所属し、部活動に熱中。高校卒業後は大学へと進学します。
「勉強が好きというわけではなかったので、部活動を一生懸命やっていましたね。その時の仲間は、この歳になっても集まったりするほど、仲が良いんですよ。」
「大学への進学も私にとっては自然な流れでした。経済やビジネスに興味もあったし、将来何かの役に立つかなという思いで、商学部を選びました。」
大学に進学、そしてその後は一般企業などに就職…という、家業とは関係なく、多くの人が進む人生の道を歩み始めていた田原さん。転機が訪れたのは、大学在学中のことでした。
「親父が身体を壊してしまい、入院したんです。「包丁を研ぐ」という仕事は、大きな砥石を回転させたり、泥を汲み出したりと重労働でもあるので大変なんです。もちろん、入院した親父の代わりなんて私が出来るはずもなく、同じ職人でもあった叔父や親戚の方に頼って、なんとか仕事をこなしていました。その頃からですかね、本格的に「包丁研ぎ」の仕事を手伝いはじめたのは。でもね、親父からは大学だけは卒業しなさい、と言われていたんです。結局、6年かかってしまいましたが、卒業して良かったなぁといまでも思っています。」
「家業を継げ」とは言わなかった父親の入院。その姿に、田原青年は一つの想いがやどり始めます。
「やはり、親父の後を継ごう」と。
こうして、「包丁研ぎ」としての人生をスタートさせた田原さん。しかし、それは大学卒という、周りの同業者からしても、遅い、遅い、スタートとなったのでした。